ことわざの妙
どうも、RinDaです。
今回は、「ことわざの妙」を感じた話をしようと思います。
過ぎたるは及ばざるが如し
皆さんご存知のことわざです。
物事をやり過ぎるというものはそれを全然やれなかったことと同じである。
という意味のことわざですよね。
よくマンガの台詞で
「勇敢と無謀は違う」
「慎重と臆病は違う」
みたいな言い回しがあったりします。
こんな感じの「過ぎたるは及ばざるが如し事例」がコミュニケーションには溢れているなあと感じています。
人にやさしく生きる
中でもよく巻き起こるのが「親切」と「お節介」だと思います。
皆さんは、どこまでが「親切」でどこまでが「お節介」だと感じますか?
ボクの考えはこうです。
「相手の状況による」
つまり、相手が喜んでくれる要素があれば、それは「親切」と言っていいと思います。
逆に「お節介」というのは自分の都合だけで親切を相手に押し付ける行為だと思います。
線引きをを明確にするのは難しいですが
ひとつ引ける線は「相手のことを知ろうとしているか」だと思います。
相手のことを知る努力をしていれば、今はただの「お節介」もいずれ親切に変わる時が
来るかもしれません。
それを決めるのは受け手側
親切の線引きが相手の状況による以上、
その行動を親切だと確定させるのはその行動を受ける側です。
なので、その行動を「親切」と解釈させる理由が必要となります。
しかし、その理由を述べながら親切するというのも変なので、問われたら応えられるようにしておけば問題ないと思います。
自分が受けるとき
なので、自分が受ける時には、相手の理由を感じ取ることに気を向けた方がいいと思います。
ただ自分に不都合だからという理由で「お節介」だと断定するのは、さすがにかわいそうです。
「行動」と「気持ち」は別で受け取ることも考えましょう
「その気持ちだけで十分だよ」
なんて、いい場面で言えると最高にいい人って感じしますよね。
また、
「気持ちは嬉しいけど、
今はそんな気分じゃない」
など、受ける自分の考えや気持ちを伝えることで、相手が行動しやすくなるということもあります。
なので、親しくなりたい人には、正直に気持ちを伝えた方がいいのかもしれません。
世の中は二者択一ではない
「過ぎたるは及ばざるが如し」は世の中が「するかしないか」の二択ではないことを示しているのではないでしょうか?
あらゆることは
二者択一のゲージのようなものではなく
【する】>>>>>>>>>>>>>【しない】
円のような構造になっている
【する】
↓ ↑
【しない】
例えば、数学テストの証明問題。
論理的な説明で以って証明を示せば先生はその答案に点をつけるでしょう。
しかし、内容があっていたとしても「なので」や「よって」など証明における文章表現を間違えていたら、それは不正解、または減点になるでしょう。
これは「文章表現」という割と一般的な基準での正解不正解です。
これが正しくても円構造の証明にはなりません。
では、これはどうでしょう。
ある生徒がこの証明問題をまだ世間的には証明されていない未知の論理を解き明かし証明していたとしたら?
これはテストそしては不正解です。
テストには「授業の内容を踏まえる」という暗黙のルールがあるからです。
しかし、世間的に見れば世紀の大発見。
この少年は数学史に名を残し未来永劫語り継がれるでしょう。
つまり大正解な訳です。
これも「過ぎたるは及ばざるが如し」になると思います。
まとめ
「過ぎたるは及ばざるが如し」とは、物事を二者択一ではなく、円のように循環していることを示していつのではないか?
というボクの持論でした。
アメリカ大陸を発見したあの有名なコロンブスも
「インド、逆からの方が早いんじゃね?」
という発想からアメリカにたどり着いたと言います。
世の中には、「過ぎたるは及ばざるが如し」があふれている。
皆さんも気にかけてみて下さい。
RinDa