センス、才能、そして天才について
どうも、RinDaです。
普段Twitterにて、声優志望者の方に向けた「演技上達に有益な情報」を発信しています。
今回は「センス、才能、天才の違い」について記事をまとめたいと思います。
よく人を評価するときの文言で「センスがいいね」とか「才能に溢れている」とか「まさに天才」というものを目にします。
また、これらが自分に備わっていないことに対して、悲観したり、悩んだりしている方も少なくないと思います。
そこで今回は
について考えをまとめたので、共有していこうと思います。
自分の中でニュアンスを固めておくだけで、メンタルは安定させることができます。
言葉に振り回されて、無闇に舞い上がったり、落ち込んだりしないようにするためにも言葉の微妙なニュアンスを理解しておきましょう。
これら三つの言葉は、同じような意味で扱われがちですが、実のところ全く違います。
「センスを磨く」とは?
まず、「センス」の特徴は「磨くことができる」ということです。
センス(sense)は直訳で「感覚」、言葉としては「物事の感じや味わいを微妙な点まで悟る働き」を意味しています。
私と解釈としては「造詣の深さ」が「センス」に当てはまると思っています。
例えば、皆さんは「神社」について語れますか?
神社とは、日本独自の宗教「神道」の考えに基づく「神様を祀る建物のこと」です。
よく神社には「初詣」や「お百度参り」などで、神様にお願いごとをしに行くと思いますが、神社にはそれぞれ特化したお願い事があるのをご存知ですか?
「八百万(やおよろず)の神」が存在している日本神道では、祀られている神の一柱一柱によって、湯島天神などの「学問の神」、神田明神などの「商売繁盛の神」のようにある種の得意分野が存在しているのです。
中には諏訪神社のように「あらぶる神」の災いから、結界を作ることで土地を守る為に作られた神社もあります。
なので、近所の神社だからと言って何でもお願いしてもいいとは限らないのです。
というような感じで、もし知識を持っているのであれば、「願い事に沿った神社を選ぶ」という判断基準が出来上がります。
そしてそこに「センス」が生まれるのです。
また神社には、「参道の中央を歩かない」「鳥居をくぐる前に一例」「二礼二拍手一礼」「夕方以降は参拝しない」など細かな作法が存在しています。
それを知っていれば、無礼な作法に「気づく」ことができます。
それもまた「センス」です。
そういった、知識や経験の積み重ねによって生まれるものを「センス」と呼ぶのではないでしょうか。
才能の正体について
「才能」の特徴は「生まれついてもの」ということです。
ですが、才能が完全に「生まれついうてのもの」だとすれば、「蛙の子は必ず蛙」だし、「蛙の親も必ず蛙」ということになります。
それは、果たして事実でしょうか?
現役で活躍されている声優さんの方の中には「声優一家」と呼ばれる方々もいますが、数えられるほどしかいません。
ほとんどの方が、声優や役者としては「一代目」だと思います。
これはつまり、「演技の才能」など「○○の才能」が遺伝子に刻まれているわけではないということです。
では、才能の正体とは何か?
私の推している考えでは「興味の向き」と「集中力の質」と結論付けています。
まずは「何に興味を示すか」
そして「それに対しどれだけの集中力を発揮するか」
これらは確かに遺伝によって決められる「生まれついてのもの」です。
あとは、人生のどのタイミングで「強い興味を示すもの」に出会えるかという「環境」の問題です。
そう考えれば、親が子どもの環境を作るので「蛙の子は蛙」になる可能性は高いですし、逆にそうでない場合も説明ができます。
また、集中力の質も、強い弱い、長い短い、深い浅い、狭い広い、など様々な質があるので「成長速度は人それぞれ」という一般的な考えの裏付けにもなると思います。
天才という「不幸」
天才とは「天賦の才」
つまり「神より与えられし才の持ち主」のことを指します。
一般的には「素晴らしい結果を残している人」や「上達がものすごく速い人」という認知をされていると思いますが、本物はどうも違うみたいです。
最近の研究では「ギフテッド(Gifted)」言われるものが、「本物の天才なのでは?」と言われています。
ギフテッドの最大の特徴は、「もう既に知っている状態」であること。
「結果を出す」までもなく、「上達する」までもないのです。
なぜなら、もう知っているから。
有名な人物として19世紀のインドの数学者・ラマヌジャンが挙げられます。
彼はほぼ独学で数学を勉強していたにも関わらず「一日に6つの新たな公式を発見する」という逸話を残しており、彼曰く「女神さまが舌に公式を書いて下さる」らしい。
ただし、ギフテッドには問題もあります。
ギフテッドは、ある分野においては「既知の状態」を保持しているが、それ以外の分野は全く何も出来ないのです。
例に挙げたラマヌジャンは、公式を発見するために三十時間以上睡眠をとらずに活動する生活を続け、衰弱した末に病死するという数奇な結末を迎えています。
なので、傍から見れば「変人」や「出来損ない」として見られることも多いようです。
「自分は最初から才能に溢れていればよかったのに」とか「天才に生まれてきたかった」とか思っていた時期が私にもありましたが、「何でもわかる」という状態がこのような「不幸」を招くことを知った時、天才でないことに安堵したものです。
以上が、天才の真実です。
まとめ
- センスは「知識と経験による造詣の深さ」
- 才能は「興味の向き×集中力の質」
- 天才は「既知の状態」のことである
もちろん、考え方や見方は人それぞれです。
私のとらえ方の利点としては、「センスのある人」「才能のある人」「天才の人」を演じる時に区別をつけることができるという点です。
センスのある人は「物知りな人」
才能のある人は「熱意のある人」
天才は「知っている人」を演じればいい。
それに、冒頭でも申し上げた通り、どの言葉も世の中にふわっとはびこっている言葉なので、惑わされやすいです。
他人の言葉一つで調子を狂わすのはもったいないです。
センスは勉強するだけでなんとかなるし、
才能だって、自分の「興味の向き」と「集中力の質」を理解出来れば、才能のある人に見せることが可能です。
そして、天才という言葉にテングにならずに済みます。
他人の言葉に惑わされず、自分の出来ることをちゃんとやっていきましょう。
RinDa